大学入学を機に、大阪市内にある総合病院の皮膚科へ通院することになった。
その背景にはアトピーが全然良くならないことへの不満は勿論、何も聞けない雰囲気満載の地元皮膚科に対して、もうウンザリしていたことが大きい。
いい機会である。
「ズバリ。どうすればアトピーは治るのか?」
医師に対して単刀直入に聞いてみることにした。
その数分後、自分が奈落の底に突き落とされることとは露知らず。
私 「先生。どうすればアトピーは治るのですか?」
医師 「アトピーは治す病気ではなくコントロールする病気です」
私 「コンロール!?」
医師 「そうです。アトピーは皮膚のバリアーが原因で、これは遺伝的なものです」
私 「遺伝・・・」
医師 「遺伝は治療できません。従って根治はありません」
私 「・・・・・・・・」
顔色ひとつ変えず、医師は淡々と説明した。
当時、私の感覚はこうだった。
普通、患者は病気を治したくて病院に行く。
お金と時間を使って病院に通う目的は病気を治したいからだ。
それをいきなり、「アトピーは治す病気ではない」と言われても、納得できるものではない。
今なら「腰痛は自分でコントロールしましょう」と言われれば、受け入れることができる。
だが当時、まだ十代の私には無理だった。
「アトピーは治す病気ではなくコントロールする病気」と言われた瞬間、私はそれを「不治の病」宣言と解釈した。が、そこにはそれなりの理由があった。
父と祖父のこと
医師から、「アトピーは遺伝」と言われた瞬間、私はギョッとした。
実は、思い当たるフシがあったからだ。
父は私が幼い頃から、いつも軟膏を手放せなかった。当時はまだ「アトピー」と言う言葉がなく、父はいつも「湿疹」と呼んでいたが、その「湿疹」は祖父からの遺伝なのだと聞いていた。
一方、祖父は晩年、頑固な皮膚病に悩まされていたが、その姿が幼い私の記憶に焼き付いている。
アトピーが悪化する度、私の中で「遺伝」の2文字が肥大化した。
その矢先の「アトピーコントロール説」だったが、正直、これは当時の私にはショッキングだった。
だが、私には最後の「砦」があった。
この砦だけが、私を力付ける唯一の源泉のようなものだった。
その「砦」とはこうだ。
「アトピーが遺伝なら、どうして高校に入るまでそのアトピーは出なかったのだ?」
事実、私は生まれてから高校に入学するまで、アトピーとは全く無縁の生活をしてきた。
「アトピーが遺伝なら、どうして生後間もなく発症しないのだ?」
理屈以前の問題として、実感として私にはどうしてもアトピーが遺伝だけの病気とは思えなかった。
何かをキッカケにして治る方が、現実的な気がしていた。
結局、この総合病院には3か月ほど通院しただけで行かなくなった。
アトピーを治したい私と、アトピーが治らないことを前提に話を進める医師、当然、会話は噛み合わない。
治療そのものにも不満があった。
「君のアトピーが治るかどうか?それは問題ではない」
「大切なのはマニュアル通りの治療をすること。そこに意義がある」
医師は決してそんなことは言わなかったし、多分、そんな風には考えていなかったのだと思う。
だが、当時の私はアトピー治療に対して、いやアトピーと言う病気全般に対して、かなりヤサグレていたのだと思う。
この時以来、私はアトピーに付いて自分で調べることにした。
書店や図書館に行っては、アトピーの情報を収集した。が、当時はまだネットの無い時代。
いくら頑張ってみても、患者が収集できる情報には限界があった。